5年間ソフトサンティアを愛用してきた僕がロートソフトワンに乗り換えたたった一つの理由

容器がしっかりしてる

ソフトサンティアは容器が全体的にヤワくてキャップがクルクルーって感じなんですけど、ロートソフトワンは容器が全体的にカタくてキャップがパキッとしているので持ち運びに向いていて最高。

Kindleのジレンマ

リアル本 → ぜひとも印刷された紙で持っておきたい好きな本
Kindle本 → そこまででもない本

って使い分けようと思ってたんですけど、よく考えてみたらそこまででもない本って古本屋で買うことが多いので、結果的にリアル本ばかり買ってしまっている気がします。
小説の文庫本なんかだと、別に所有感なくてもかまわないし、新品でも古本屋でもKindleでもたいして値段が変わらないのでKindleで買うこともあるのですが…

まあ、ブックオフの100円コーナーを巡るのが趣味みたいな僕には電書化生活というのは無理な話だったのかもしれません。

トコノイタンハの2getが目立ちません

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ネット上に生まれた数ある名コテハンのうち、やはり僕にとって最も身近であるコテハンといえばトコノイタンハだろう。
2000年頃からオンラインとオフラインに彗星のように参上し、その高い身長と甘いマスク、ネットカルチャーと音楽への造詣の深さを見せつつ、異性同性を問わず魅惑し、また後の掲示板界でも「ひたすら2getする」という前衛的なコミュニケーション表現によって、2getがスレ立て主への敬意表現なのか否かという議論を呼びつつ、その議論の結果を待たずにネット界を去ってしまったトコノイタンハである。
活動期間の短さもあり、広く知られた名前ではないが、トコノイタンハ名義での活動を終了した後も2〜3年ごとにネット界の著名人から「そういえばトコノイタンハってどうしてるの?」と話題に上がる辺りが、彼の存在感の強さの証明でもある。

さて、そのトコノイタンハと今日、秋葉原で飲んできた。
彼がLINEで「死にたい」と言ったので、僕が「死ぬ前にアカギみたいに色んな人を集めて対談しましょう」と言い、なぜかわからないが、とりあえず秋葉原に集まろうということになったのだ。

僕はトコノイタンハにおごってもらったビアードパパのシュークリームを食べながら、トコノイタンハにおごってもらった北乃カムイのガラナを飲み、UDXのウッドデッキで、僕たちの今までとこれからについて、少しだけ話をした。
その結果「まあ絶望的ではあるけど、死ぬほどではないな」ということになり、いい加減、日も落ちてきたのでどこかに入ってサッと酒を飲もうと言うことになったわけだ。

秋葉原で飲むと言えばサイゼリヤである。
酒を出す店はいくつかあるのだろうけれども、夜が長い町ではないので、店の選択肢は少ない。
いい大人が二人とはいえ、肩と腰と絶対領域を露出したメイドさんにフラフラとついていくのは、少し怖い。
ここはやはり明朗会計の安心店であるサイゼリヤに行こうではないか、ということで僕たちはサイゼリヤ秋葉原中央口店に向かい、白ワインや赤ワインなどと一緒に軽いつまみなどを飲み食いし「これでも二人で1500円にもならないぞ」などと注文明細を見て高笑いをしてから会計をすませて店を出た。

夜勤明けで丸一日以上起き続けているトコノイタンハは言う、
「おう、15よ、俺はもう帰るぞ。何線で帰る。秋葉原駅かい、末広町かい」
「何線、何線。なにせんで帰りましょうかね。じゃあ”ぜんりつせん”で帰りましょうか」
「ひゃっひゃっひゃ、じゃあ”ぜんりつせん”の何駅だい」
「この辺だと何駅になりますかい」
「そうだな、ここいらでは”せいえき”か」
「ぎゃっきゃっきゃ、いいですね。”ぜんりつせん”の”せいえき”はっしゃ。ぎゃっきゃっきゃ。”せいえきはっしゃ”。」

僕たちは30分でデカンタ2本ほどを空けていたので上機嫌だった。

ひとしきり笑った後、トコノイタンハは「じゃあ俺は帰るぞ。15も帰れ」と言って、銀座線の地下階段に消えていった。

僕は少し飲み足りないような気がして、末広町のサンクスに入ってエビスのロング缶を買った。
一人でガードレースに腰掛けて缶をぷしゅうと空けると、道路標識に車のヘッドライトの明かりが反射して綺麗に輝いているのが見えた。
「あはは、こんなに標識が綺麗なのに。誰も見てない」
あーあ。
僕はバランスを崩してガードレールからゴロリと歩道へ。

あーあ。
雑居ビルの谷間から空は見えるけれども星は一つも見えない。
明るいなあ。
さすが電気街。
なんて思う。

そしたらおまわりさんがやってきたので途端に身を起こして「帰ります、大丈夫です」なんて。

ちゃんと帰るよ、トコノイタンハが「今日のオフレポを書け」って言ったからね。
100回以上サシで会ってるだろうに、今さらオフレポなんて、ね。
はは。

渋谷でソバ食って帰って書きますよ。
はは。

1600円のリモコン

小金をもてあましていた1年ほど前のこと、俺は所有しているテレビジョンの音響を強化すべく、サウンドバーなる家電製品を購入した。
要するにテレビに外付けするスピーカーである。
我が家のテレビは32インチとサイズは中型クラスながらフルハイビジョン倍速液晶3D機能対応などを謳う、当時としてはかなりハイエンドな製品であり、おおよその品質においては満足していたのだが、しかし音響に限っては非常にいまいち、いまに、いまさんと言わざるをえない性能であり、ニュース番組はともかく、音楽番組や映画を見る際にはテレビ側部に備え付けられているイヤホンジャックに3mほどの延長コードをつなぎ、そこへ手持ちのヘッドフォンを接続して番組を視聴するなどのおよそ現代人らしからぬ視聴スタイルを強いられてきたのである。
テレビを購入した当初は、せっかく安くはない金を出して買ったのに10年前のブラウン管テレビより音が悪くなっているではないかと憤慨してしばらくテレビの視聴を放棄したこともあったのだが、後に調べてみるとこれは決して東京芝浦電気の技術開発力不足や怠慢ではなく、どうやら薄型液晶テレビという形状に因るもので、要は薄っぺらいものからは薄っぺらい音しか出ないということらしい。
なるほど確かにブルジョアジーの邸宅などを見ると、たいてい80インチほどのテレビの左右にトーテムポールの様な棒状のものが屹立している。
テレビジョンというものは映像を映すためのものであり、音響機能というのはオマケ、いい音が聞きたいのならきちんとしたスピーカーを買いなさいよね、と分業制になっているのか、そうかそれならばいつかうちも分業制に移行せねばならないなと長年思い続けてきてのサウンドバーの購入であった。

当初はブルジョアジーの真似などして、例の左右にそそり立つスピーカーを買おうと思っていたのだが、家電情報サイトなどを巡回閲覧してみると、どうやらそういった種類のものは主流ではなくなっており、特にミドルレンジ以下の価格帯ではサウンドバーと呼ばれる、テレビ前方下部に設置する横長のものが主であるらしい。
テレビの左右に余白を作れない、つまりは俺のように二十平米に満たないような極めて狭小な空間で生活している人間がテレビの音響強化を図るためにも各家電メーカーは製品開発をしてくれているのであり、まったくもってありがたい、感謝感激、雨あられ。
通販サイトを閲覧中であった俺は、その雨あられに打たれた勢いで右手に握られたマウスの操作を誤り、翌日夕方にヨドバシカメラからサウンドバーが届く次第となった。

DON’T TRUST OVER 30

日本語で言えば「30過ぎを信じるな」といったところだろうか。
ヒッピーやらロックンローラーがよく使う言葉らしい。

なるほど確かに30歳くらいになると、仕事で役職に就いたり誰かと結婚したり住宅ローンを組んだりと、様々なアレがソレして言動が個人的なものとしては収まらなくなってしまう年頃であるので、人間性をTRUSTするかどうかはさておいても、表層に出てくる30歳の言語表現というものは社会性というオブラートに包まれているのであって、そのまま素直にTRUSTできるものではないのかもしれないな。
と20代の僕は思っていた。

そんな僕もいつまでも20代であるわけではなく、当然年を取って30歳になる。
30歳になりそうな僕は思った。
「そういえばoverって『以上』だっけ?『より上』だっけ?overが『より上』なのだとしたら30歳はギリギリセーフでTRUSTされる側の人だな」

30歳になりそうな僕はハイパーテキストトランスファープロトコルの助けを借りながら「over」について調べてみた。
どうやら「以上だよ派」と「より上だよ派」の二派があるらしく、その意味の正確な決定打を得ることはできなかった。
ハイパーテキストトランスファープロトコルもあいまいなやつだ。

だいたい日本語でも「以上」とか「以下」なんて言葉の使い方は、特に口語ではあやふやだ。
「以下」なんて「未満」の意味合いで使われることの方が多いんじゃないだろうか。
そして「未満」の対義語は「超過」らしいのだが、そんな言葉を使ってるのはほとんど見たことがない。

まあ文脈を見て随時判断しろということなのだな。
人間はプログラムではないので<や≦を混同したところでたいした問題ではないのだ。

そういうことを踏まえて「DON’T TRUST OVER 30」の文脈を見てみよう。
おそらく30歳はアウトだ。
しかし30歳がギリギリセーフである説も捨てがたい。
なにせ僕はもうすぐ30歳だ。
まだTRUSTされたい。

などと考えていたのがちょうど1年前。

僕は今日から31歳。
まごう事なきDON’T TRUSTなOVER 30だ。

芳文社の注文書

書店の皆様へ

「まんがタイムきらら系の名作コミックを色々読みたい!」と思ってググってたら偶然見つけたんですけど芳文社って書店向けの注文書をネットで公開していて、なおかつ「売上良好書及び推薦図書」(売れてるまんが、および売りたいまんがのことであると思われる)を公開しているんですよね。
URLをいじるとバックナンバー的なものが見られるので「今日も一日がんばるぞい!」の台詞で有名になった得能正太郎の「NEW GAME!」がいつ頃から売れ筋作品になったかと言うことが類推できて、マンガ好きにとってはなかなか興味深い内容になっています。

コンテンツとアーキテクチャ

コンテンツがアーキテクチャを規定した例:
カラヤンが「新しいメディアを作るなら第九が入るくらいの容量があるといいナァ」って言ったのでCDの容量は74分になった
(諸説あります)

アーキテクチャがコンテンツを規定した例:
「フルボイスのギャルゲーで自分の名前を読み上げてくれないのは寂しいナァ」とみんなが思ったので、名前を読み上げる必要がないメイド(呼び方:ご主人様)や妹(呼び方:お兄ちゃん)がギャルゲーにたくさん出るようになった
(諸説あります)

っていう話をマクドナルドで隣の女子高生がしていました。

僕は状況認識能力が低い

先日、駅のホームでボーッとポスターを眺めていたら後ろの停車中の電車の中から「すみませーーーーん!!」という女性の大声が聞こえた。
なんだなんだ、どうしたんだ。
振り返るとそこには電車のドアから半身を出しながらホームの改札方向に向けて叫んでいる女性。
手には傘を持っている。
どうやら僕に対して声をかけているわけではないらしい。
ならいいや、僕の問題ではないらしい。
しかしホームの誰も振り返らない、いったい何なんだろう。
そう思いながら再びポスターに目を戻した。
「すみませーーーーん!!」と再び後ろで声がする。
発車ベルが鳴る。
ドアが閉まる。
ぷしゅー、がたんごとん。
ああ、そういえばなんでこの女性は大声をだしていたのだろう。
誰に対して何の用事で「すみません」と言ったのだろう。
ポスターから目を外して少し考えた。
女性は手に傘を持っていた。
そうか、あの女性は電車内に忘れられた傘に気づいてその持ち主を呼んだのではないだろうか。
傘が忘れられていることには気づいたが、停車時間がほとんどない地下鉄ではわざわざ降りて手渡しすることはかなわず、降車した何人かのうちの中の誰かに向けて「すみません、傘を忘れていませんか」という意味でその言葉を発したのではないのだろうか。
それに気づいたときには電車は既に暗い地下の線路の向こうに行ってしまって、がおおという走行音が小さく聞こえるだけであった。
電車から降りた人のすべては改札口に向かっており、誰が傘を忘れた人なのか全くわからなくなっていた。
僕はその場ですぐに「誰が傘を忘れたんですか」と言えなかった自分の反応の悪さを呪い、「すみません」というアバウトな呼びかけしかできない善意の女性を呪い、そもそも傘を忘れた人を呪った。

という話を知人にしたら「いや別に傘を忘れたとは限らないんじゃね?万が一傘を忘れたとしてもおまえが気に病むことはないんじゃね?」って言われたのですが僕の中では絶対傘を忘れたシチュエーションだと思ったので今ここでブログに書きました。

気に病むべきことかどうかは知らないね。

僕は偏執性が少ない。

先ほど花物語を見ていたところ「そういえば『自分語』と書くとまるで西尾維新の一作に見えるな」とひらめいたが、おおよその結果の予測のついた状態でググってみたところ、既に多くの人々が1億6000万秒ほど前に同じようなことを考えていたことがわかった。
世界中の情報が整理されつつある現代では、自分の頭の中から出てきた小さなひらめきの本質は凡庸な思いつきであることが簡単に確認できる。16人がハイライト

それはそれとして僕の話である。

僕は偏執性が少ない。

昔からビデオゲームなどに熱中することはあったが、わりとそれはマイブームの範疇に収まるものであって、数年もしたら飽きてしまうことがほとんどであった。
「ファン」にはなるけれども「マニア」にはならないという程の熱度とでも言うのだろうか。
昔の僕を知っている人はこう言うかもしれない。
「いやいや、マニアなんて生ぬるい言葉ではなくて、信者と言ってもいいくらいにのめり込んでいたね」と。
いやいや、そんなことはない。
その分野にのめり込んでいるように見えていても、その実は風呂に張った湯のように、沸騰の半分以下の温度がゆっくりと熱を失っていく程度の熱中であったのだ。

継続性に着目すれば、唯一思春期頃から今まで続いている趣味は漫画読みくらいなものであろうか。
二十歳以前の漫画読みとしての体験は記憶があやふやで正確な冊数は数えていないが、二十歳の頃から少なくとも一日一冊以上の漫画単行本を読んでいる。
そこから10年経ったとして、単純計算で3650冊くらいはゆうに読んでいる。
漫画を読まない人からすればおそらくなかなかの数字であると思われるが、漫画読みからしたらほどほどの冊数である。
確かに読んだ冊数だけでは漫画読みとしての資質や意欲はわからないかもしれない。
読んだ回数が重要かもしれない。
両津勘吉がバカボンを繰り返し読んだように、僕もこち亀を繰り返し読んだ。
しかしこち亀カルトクイズで高い正解率を誇れるくらい、こち亀の知識があるほど読み込んでいるわけではない。
僕がこち亀を繰り返し読んだのは、米が美味しいから毎日食べるようなものであって、こだわりではなくて日常としてそれを行っていたからというだけである。

他にも漫画読みとしての意欲が足りない話をしよう。
僕は「AKIRA」を読んだことがない。
たぶんこの時点でマニアな漫画読みとしては失格だ。
キャビアを食べたことがないのに食通を気取っているようなものである。

漫画以外の話もしよう。
僕はビールを中心とした酒類が好きだけれども、最近までギネスがドイツのビールだと思っていた。(正しくはアイルランドのビールである)
これだけで十分、僕が酒に対するマニアックなこだわりがないことがわかってもらえたと思う。

結局はそうなのだ。
ファンにはなれてもマニアにはなれないのだ。

そういう意識はゲームや漫画や酒だけではなく、インターネットに対してもそうなのだ。

インターネットに対しても、僕は偏執性が少ない。

インターネット人口が少なかった昔は、僕はまだ若くてインターネットに触れたばかりで、ネット人口の少ない現実世界の中では相対的に上位のインターネット好きであった。
渋谷のスクランブル交差点を歩けば「いま横断歩道を渡っている中で一番インターネットが好きなのが、俺だ」と思っていた。
しかし今は違う。
せいぜい上位30%に入るくらいだ。

昔はネットメディアが取り上げるニュースが古くさくて仕方ないと思っていた。
メディアがまるで速報であるかのように出した記事に「それは2日前に流行った話題だわ」と思っていた。
それがどうしたことか。
今では私がおじいさん。ネットメディアの記事でネットの流行を知っています。
孫に見せるのはもちろんITmedia。
なぜならインターネットが僕にとって特別な存在ではなくなってしまったからです。

吉呑みをしながらツンデレに思いを馳せる 完結編

結局俺は吉野家で生ビール二杯と牛皿(並)、牛すじ煮込み、芝海老の素揚げを飲み食いした。
全部で1470円。
安いっちゃ安い。

味の方はというと、ビールが最高に美味かった。
銘柄はサントリーのモルツザドラフトらしい。
モルツザドラフトは前にもどこかの店で飲んだことがある気がするけど、その時はそれほど美味く感じなかった気がするので不思議なものだ。

つまみは微妙だった。
牛皿はもちろんあの牛皿なので美味いし安い。
けれども牛すじ煮込みはぬるいし味もいまいちで、250円の牛皿と比べて350円というのは高く感じる。
芝海老の素揚げも少し冷めている上に味付けがあまりにもしょっぱくて閉口してしまった。

二杯目のビールを飲みながら俺はツンデレについて考えた。
もともとツンデレという言葉がなかった頃、俺たちは普通の漫画のキャラクターにツンデレを見いだしていた。
「普段はツンツンしてるけど微妙にデレる瞬間のあるキャラクターは最高だぜ!」と思っていた。
しかしツンデレという単語が生まれ、それが一般に認知され普及することによって、キャラクターのテンプレートとして過剰なツンデレ像が描かれるようになる。
キャラクターを作る人は、もちろんニーズに応えてキャラクターを作っているのだろうけど、俺はどうもそれがサービス過剰のような気がして、素直にツンデレを楽しめなくなってしまった。

結局はそういうことなのだ。

飲み屋ではないファストフードやファミレスで飲むというのは、ある種ハック的な楽しみでもあったはずだ。
ビールやワインを置いている飲食店に「飲み」を見いだして飲み屋として使うのが楽しかったのだ。
もちろんもともと飲み屋ではないので、飲み屋としてのクオリティは全く期待していなかった。
つまみの種類が少ないのも居心地がよくないのも、飲み屋じゃないから全然許せた。
しかし吉野家から「吉呑み」と言って飲み屋的なものを提示されると、どうしても飲み屋的なクオリティを求めてしまうのだ。

そんなことを考えているうちに吉野家2階の飲み席には順番待ちの列ができていたので、俺は残ったビールを空けて会計をすませた。
店にいたのは30分ほどだろうか。

外に出るとぬるい風が吹いていた。

「もう少し飲みたいな」

俺は向かいにある日高屋へ入り、ビールと餃子とおつまみ唐揚げを注文した。

おわり