2031年の役所窓口


「すみません、『自分の照会』をしたいのですが…」と、ぼろぼろのダウンジャケットに身を包んだ男が言うと、役所窓口の女性職員はつまらなそうに眺めていた書類から目を上げ「はいはい。記憶喪失者の方ですね。近ごろは疫病か何かの影響かは知りませんが、そういう方が増えています。大丈夫です。すぐに身元がわかりますよ。先日わたしが対応した方も二日後には家族の元に帰ることができました」と笑顔で答える。

その笑顔に安堵して男は記憶を手繰り寄せるように語りだした。
「俺の名前は山口総一朗… たしか生年月日は1981年の9月3日。そうです、9月3日でした。記憶喪失になっても意外と名前と生年月日は覚えているものですね。人生で何度も口にしたからでしょうか。住所は思い出せません、もしかすると最近引っ越しをしたのかもしれません。しかし電話番号はずっと使い続けているのか覚えています。090の…」
と、続けようとすると女性職員は割り込むように口を挟んだ。
「ああ、そういうのはもう駄目になったんですよね。記憶喪失者だからご存知ないかもしれませんが、去年からそういった個人情報では個人の照会をしなくなったんです。だって、あなたもさっきおっしゃったじゃないですか。『何度も口にした』と。そんな公に知られていることを言われても、その人が本人かどうかわからないじゃないですか。実際におととしに他人になりすまして本人証明書を詐欺に利用した人がいて社会問題になったんです。それ以来、その人が本人であるという確認が厳しくなったんですよ」

男は閉口した。
では、いったい何が俺が俺である証明をできるのか。
その男の気持ちを察したように、女性職員は言葉を続ける。
「この窓口で個人を証明するためには、その人でしかできないことを披露して頂いています。例えば先日の記憶喪失の方だと、自分は著名な数学者だとおっしゃるので、ミレニアム問題を解いていただきました。そのうちの二問の回答を提示していただき、アジア人では唯一その人が持つ数学的知性であると認められました」

男は閉口しっぱなしであるが、女性職員はさらに続ける。
「さらにその前の方ですと、趣味で皿回しをしているとのことでしたので、ここで皿回しを披露していただきました。普通、皿回しというと両手でそれぞれ一つ、合計2枚のの皿を回すのを想像しますが、その方は両手両足でそれぞれ2枚ずつ、合計で8枚の皿を回していました。この枚数はどうやら世界記録ではないようでしたが、それぞれの皿の回転数は世界一らしく、皿回し同好会の方にも同席していただいて、間違いなく本人であると確認ができました。しかし両手両足でそれぞれ2つのお皿を回すなんてどうやったらできるんでしょうかね。わたしも目の前で見ていましたが、こんなことをできるのが世界に何人もいるなんていまだに信じられません」

「では、つまり俺が俺であると証明してもらうためには、俺にしかできないことを見せる必要があるということですか」
「はい。あなたが、えー… 山口総一朗さんが山口総一朗さんであると認めるには、山口さんにしかできないことを見せていただく必要があります。『山口さんしか知り得ないこと』は駄目です。なぜならそれは、わたしたちもそれが本当であるかわかりませんから。あくまで他の人から見てあなたが本人であるかの確認ができるかが重要です」

男はしばしうつむいて、自分の半生を思い返してみた。
なにか俺が俺である証明ができるようなことはあるだろうか。

小学校から中学校まではバスケットボール部に所属していたような気がする。
しかし、ほとんどが辛い練習をしていた記憶しかなく、大会でも結局ベンチを温めていただけだった。

高校生活はどうだったろうか。
バスケットボール部で結果を出せなかったことに嫌気が差し、勉強に明け暮れていた覚えがある。
その結果、なんとか志望していた国立大学に合格した。
しかし学園生活といったものにはとんと無縁で、おそらく誰の記憶にも残っていないだろう。

大学生のときには彼女がいた。
同じ大学で趣味が合う異性だったので、なんとなく付き合うようになった。
いつかの夜、感傷的になった俺は彼女にプロポーズのような言葉を送った気がするが、肝心なその言葉を覚えていない。
その言葉を覚えていれば、俺が俺である証明を彼女にしてもらえると思ったが、卒業からしばらくして彼女とは疎遠になってしまったので、それも叶わない話だ。

「どうしましたか?山口さんが山口さんである証明はできそうですか?」と、女性職員はのんきに問いかけてくる。

「どうやら俺は俺であることを証明できないようです。たいした人生も送っていないし、特技もない。誰かの記憶に強く残っていることもないでしょう。特別な人間でなければ自分が自分である証明もできないなんて、むずかしい世の中ですね」
男が吐き捨てるように言うと、女性職員が答える。
「そうですね。しかし、そんな方にも救済措置があります。自分を証明できなかった記憶喪失者の方には、新しく別名で個人証明書を発行することができます。新しい個人証明書の氏名は自由に決められるのですが、せっかくですから覚えている名前、山口総一朗をもじって山田総一朗なんてどうでしょう。『山口』の口の中に『プラス』の文字を入れて山田にしたら、ポジティブな人生が送れそうじゃないですか」
「そんな気軽に新しい個人証明書を発行してくれるなんて、ずいぶんのんきな制度ですね」
「いえ、のんきな制度ではありません。新しい証明書は発行した時点では『他の誰でもない証明』にしかなりませんから、意外と悪用されずに安全なんですよ」
「職員さんもずいぶんのんきでポジティブだ。きっと記憶喪失者の気持ちなんてわからないからそんなことを言えるんでしょうね」
「いえいえ、わたしは記憶喪失者の気持ちがよくわかりますよ。なにせ去年の制度開始以来、初めて新しい個人証明書を発行した記憶喪失者がわたしですから」

女性職員が胸元のネームプレートを取り出すと、そこには『中田』という姓が書かれていた。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA